蛍火


開け放った窓の外から聞こえて来るのは木々の合間を流れる小川のせせらぎ。時折木の葉を揺らしては通り過ぎる風の音が、また涼を誘い夏の暑さを忘れさせる。街中にいると日中はうだるほどの気温なのに、ここはまるで別世界だと庭のそうずの打ち付ける音の余韻に浸りながら幸彦はほぅと小さな吐息を吐く。

ここは兵庫県の山間部に位置する温泉場に古くからある老舗の旅館の離れの一室。目の前にある広い庭も手入れが行き届き、苔むす岩1つにすら風情があって古くからこの土地に縁あることを思わせる。

ここの温泉は一説では日本最古の湯とも言われ、人がまだ土を掘り起こす技術が無い時代より自然に湧き出ている天然泉らしく、湯に入ればたちどころに傷やできものが治るという逸話まであるほどの有名な湯治場なのだ。

「なぁ……なんでそんな離れたとこにおるんや?」
呆れがちのその呟きに、意識が急に現実に引き戻された。
あわてて声のする方を振り向くと大仰なほど眉間に皺を寄せた仁の顔が視界に入り、幸彦はどこか苦笑混じりの笑みを小さく零す。

互いの事を想い合う仲の二人ではあるけれど、表向きは主人と使用人。また男同士という事もあってか現実的にその関係を気軽に周りに吐露出来るような間柄で無いもの事実。普段はお互いの立場を考慮して仁もここまで大胆に振舞う事はない。そんな仁の物言いがいつもとどこか違うのは今この場所に家の者とは一緒ではないからだった。

沢山の使用人を使う仁の家では毎年お盆の頃になると、働く者たちにも骨休めの日をと数日間の休みを与えてくれる。もちろんそれは幸彦とて同じだが、幼い頃に両親と死に別れ、帰る家などない幸彦にとってその休日はどちらかといえば僅かな感傷を伴う物でしかなかった。その日だけ日常を離れ1人でどこかに行く事も言い出せば許してもらえたのだろうが、もともとそういった欲の薄い幸彦の事その休みの間すらも、仁のそばに仕え普段とあまり変わらない日々を過ごしていた。それを今年は少し趣向を変えて二人でどこか別の場所で過ごそうかと言い出したのは仁の方だ。

「強引で我侭な主人の気まぐれに、仕方なしにつき合わされとるふりしとけばええねん」
二人だけで泊まりの旅行をと言われ、おかしなうわさが立つことを懸念する幸彦に鷹揚な様で仁は笑って見せる。


「そやなぁ、むさくるしい男連中がおらん休みの日もたまにはええかもしれん」
その証拠にと言うべきなのか、この提案を告げられた仁の母、美代はどこか嬉しそうな顔をしてそう言ったし。
「仁坊ちゃんが幸彦さんに甘えてばっかりで、幸彦さんにとってはちっとも休んだことにならへんのと違いますか?」
女中頭のたえはそう言って笑ってはいたが、それ以上を追求する人間は誰もおらず、文字通り強引な形で仁にこの旅行を取り仕切られてしまった。

「ここには、家のもんは誰もおれへん。やっと二人っきりになれたっちゅうのに、こんな時でさえもお前は妙に他人行儀なんやなぁ」
年甲斐もなくどこか拗ねた物言いに幸彦はまた苦笑交じりの小さな笑みを零す。

「幸彦」
ゆっくりと嗜めるような口調で名を呼ぶ仁に困ったような笑みを向け、それでも幸彦は立ち上がると仁のそばへと歩み寄った。
「何か御用でしょうか旦那様?」
膝を正し、三つ指をついて深々と頭を下げ恭しげにそう告げると、ゆっくりと顔を上げて微笑んでみせる。
そんな幸彦を見て仁の眉間に更に深いしわが寄る。

「何もせんでもええ、こっち来い」
ふて腐れたような顔のままそう言って手招きをする仁の言葉に、幸彦は少しだけ傍に近づいてみる。
「もっとや!」
それを見て、その距離では不服とばかりに、今度は少し強めの口調で呼ばれた。

膝頭が触れるか触れないかの位置に腰を下ろし正座をしたまま何も言わず幸彦はじっと仁の顔を見つめる。眉間に皺を寄せたまま口を真一文に引き結んでどこかふて腐れたような表情。まるで己の意思が通せぬ事を拗ねている子供のようなその顔はたぶん自分の前でだけ見せるものだろう、そう考えると妙に嬉しくもなる。

しばらくのあいだは、どちらからも何も言い出さず睨み合いの攻防戦のような状態が続いた。堪えきれないと言いたげにくっくっと笑い出したのは仁の方だ。

「なんでこんなとこに来てまで……せっかくの休みが台無しや」

おいで、と笑いながら手招きされて今度こそ、それに素直に従う。
ただ傍に寄るだけでは許してくれず、こっちやでと腕を引かれ、それも抗わずにいるとそのまま胡坐をかいて座る仁の足の隙間に腰を下す格好になった。
膝の上で抱っこをされるような年でもないと思うが、気にしなければならないような人目が今ここにはない事で自然と心の箍が外れてしまう。

「まったくお前はいつの間にか人をおちょくる事を覚えよってからに……」
溜息混じりに呟く唇が僅かに首筋を掠める。たったそれだけのことなのにゾクゾクと背筋が痺れるような感覚に囚われて、出そうになる声を慌てて飲み込んだ。
そんな幸彦の体の変化を敏感に感じ取り、まるでそれをからかう様に首筋に何度か軽い口付けを落とされる。


「おおきなったな幸彦、あのうちに連れてきたばっかりの頃は俺の腕の中にすっぽりおさまっとったのにな」
幸彦の体を懐に抱き込むようにしてなつかしげに仁が呟く。
まるで小さな子供の成長を喜ぶような仁の言葉に幸彦は我知らず苦笑してしまう。

しかし、仁がそう思うのも確かに無理のないことなのかもしれない。自分は実際、この人に育ててもらったような物なのだから。
仁のうちに行く前は、身よりも無く遠い親戚やその知人の家を転々として、住む場所も定まらぬ根無し草のような幼少期を長い間過ごした。仁と初めて出合ったのも遊郭を経営している大阪の遠い親戚の元を訪ねた時だ。

あの日、仁はたまたまそこを通りかかっただけだった。客としてその店に来ていたわけでもなく、ただ偶然前を通っただけ。見ず知らずの自分などそのまま捨て置かれても何の不思議も無いのに仁は店の中の会話を聞いて居たのだろう、雰囲気から瞬時に状況を察し、金で買い受けるという形で相手を納得させ幸彦の窮地を救ってくれた。

連れて行かれた仁の屋敷の広さにまず驚いた。たぶん今まで居たどの奉公先よりも広い屋敷に違いないと思う。聞けばなくなった父親の後をついで仁が代わりに会社を経営しているのだという。

沢山の使用人を使う大きな屋敷の中で、自分のような氏素性の判らぬ人間が部屋を与えてもらえただけでも十分すぎるほど十分な待遇なのに、それだけでなく、勉強や仕事までも任せてくれた。読み書きや算術が出来るようになったのも全て仁のおかげ。幸彦に対する他の者たちから不平や不満が本人の耳に直接届くことがなかったのも仁の采配の賜物だろう。

それだけではない、仁は身内の愛情に恵まれずに育った自分に、惜しみない愛情を注いでくれた初めての人だ。

ただ、あの頃は主人と言うよりは年の離れた兄のように慕いそして尊敬していたこの人とそれ以上の関係になるとは、考えても見なかった事だけれど。

「今日一日だけはおまえは俺だけのもんや、俺もおまえだけのもんや。幸彦何したい?」
問いかけられて幸彦は何かを考えるように軽く首をかしげる。
一緒にいるだけでも十分だ、とそう告げると、欲が無いなと笑われた。

「いつも十分すぎるくらいしてもろてます……」
「俺はな、もっとおまえを喜ばせたい、どうやったら嬉しそうな顔がみれるんか、いつもそればっかり考えとるんやで?」
「そうやって気にしてもろてるだけでええんです、それ以上望んだら罰あたります」
「……おまえは、そういうところは昔っからちっとも変わらん」
苦笑交じりにそう呟かれ、変化の無いつまらない奴だといわれたような気がして幸彦は慌てた。

「そ、そばにおれんようになるのだけは、嫌です」
とっさにそう告げると、あたりまえやろと言いたげにまた笑われた。
「いまのうちに土産でも見に行くか」
その提案に異論などあろうはずもない。幸彦は嬉しげに微笑んで頷いた。


「こっちの筆は奥様で、こっちがたえさん……それから、こっちは……」
立ち寄ったみやげ物の屋の店内で品物を物色しながら先刻から幸彦は思案に暮れている。普段、仕事以外であのうちを出ることの無い幸彦にとって、誰かにみやげ物を買っていくという行為はおそらく生まれて始めての体験なのだろう。あれや、これやと相手の顔を思い浮かべながら品物を選ぶ様がいかにも楽しげで、強引にでもここに連れてきて良かったとその横顔を見ながら仁は思うのだった。

この日は、いつもより少し早めの夕食を宿で摂ったあと、旅館の自慢の風呂に入った。風呂上りには夕涼みを兼ねて、川沿いに作られた遊歩道を湯上りの浴衣のまま散歩した。
日も暮れるとこの辺りのみやげ物屋は客足が途絶えるからか、早々に店じまいしてしまうらしい。遊歩道と言っても街頭もさほど多くなく歩きなれない石畳の歩道では気をつけていないとふいに足をすくわれて転びそうになる。そんな幸彦の姿を見かねたのか、その細い手首を仁の手が力強く捉えた。

「だ、誰かに、見られます……」
手を取り、そのまま何も言わず歩き出す仁の所業に幸彦は慌ててそれを振りほどこうとしてしまう。
「よう言うやろ?旅の恥はかき捨てや、ゆうて……いまここでこれを誰かに見られても明日になったら忘れとるわ」

 慌てる幸彦の態度など、特に気にも留めぬ様子で仁はそう言って笑てみせる、その笑顔で自然と気分が落ち着いた。必要以上に人の目を気にしすぎる自分と仁が上手く行っているのも仁のおおらかな性格のおかげだろう。おおらかと言っても決して雑なわけではない、相対する人間の心の機微を捉えるのが上手いからこそのなのだ。
 状況判断が的確だから仕事の時でもその時々によって、その時一番最良の指示を与える事が出来るのだろう。だから、いつも仁が大丈夫だと一言言えばなぜか不思議と冷静な気持ちになれる。

「もう少し、早い時期ならこの辺り一面に蛍が飛ぶみたいやな」
カランコロンと下駄の音を響かせて歩きながら、仁が今思い出したという風にそう呟いた。
「ホタル言うたら……光りながら飛ぶあの虫ですか……?」
「ここらへんのはゲンジボタルっちゅう種類みたいやな、さっき旅館の女将に聞いたんや。蛍……幸彦は見たことあるか?」
そんな自分の問いかけに思案するように首をかしげる幸彦を見て仁は思わず口元を緩めた。

「ほな、それはまた来年やな」
幸彦はその言葉に笑顔で頷いてみせる。そんな些細な口約束でも、また次の年に繋ぐ切欠が1つ増えたみたいで、それが嬉しいのだ。

ふと、そこで、幸彦のあゆみが止まる。

「――どないした?」
それをいぶかしむように振り返る仁の視線が闇夜に掲げられた幸彦の指先を追う。
闇夜を、ふわりと漂う仄かな明かり。青白く発光する小さな光が闇の中で、ついては消え、またついては消えて、あてどなく空を彷徨っているのだ。

「ホタル……?」
そう言って幸彦は嬉しそうに仁を見上げた。
「……ほんまやな」
何かの偶然が重なって成虫になる時期が他の物たちより遅れたのか、他に仲間も見えぬのにそれが生き物の定めとばかりの求愛行動を繰り返す季節はずれの蛍の放つ仄かな光は今にも闇に吸い込まれてしまいそうなほど儚げであった。

 それでも、こんな風にしてまた二人で過ごす思い出が1つ増えて行くのだと、そんな些細なことがなんとなく嬉しくて幸彦は、その儚げな蛍火にしばしのあいだ見とれてしまう。


「―― 行くな!!」

ふいに、後ろから力強く腕の中に抱き締められて、その言葉の意味に戸惑い幸彦は腕の中で思わず体を強張らせる。

「……だ、旦那様?」
「お前まで消えてしまう、そんな気いした。あの蛍みとったら……」
「僕の行くところはどこにもありません、あそこが僕のうちやとゆうてくれたんは旦那様やないですか?」

蛍火、挿絵

いつも堂々としている仁の口から聞く初めての弱音。
こんな風に彼も自分との事で、ふいに不安な気持ちになることがあるのだと知らされて幸彦の胸が騒ぐ。

「一回あるやろ?だまって家を出て行ったこと」
その言葉に、チクリと胸が締め付けられた。それを仁の口から言われると幸彦も辛い。

主人と使用人、男同士の道ならぬ関係。好きになってはいけない相手だと思えば思うほど仁を恋慕う気持ちは強くなっていった。自分だけが仁のことを好きになっていくようで怖かった。何時か来る別れに常に怯え、仁の口からそれを告げられる前にと一度、あのうちを逃げ出してしまったのは、二人が躯の関係なってしまってからしばらくしてからのことだ。

恩知らずと罵られ捨て置かれてもおかしくは無かった、実際そうだろうと思い込み、早く忘れようとすればするほど会いたくて苦しくなるだけであった。そうやって苦しんでいるのが自分1人だけではなかったのだと判ったのは、仁がそんな不誠実な自分をわざわざ人を使ってまで探し出してくれた時のこと。

「帰ろうと、あの時一言言われて、やっぱり自分の居る場所は旦那様の傍しかないと思うたんです……」
「行かせへん、お前は俺が買うたんや。そやからお前は俺のもんや。誰にもやれへんし、お前の好きにもさせへんで」

涙が出そうだった、その束縛が嬉しくて。相手を想う気持ちが自分の独りよがりではないのだと強引に縛り付ける形で教えてくれる、それが仁なりの優しさだと判るから。
自分以外の人間を愛しいと思う気持ちも、悲しみも教えてくれたのは仁だ。何時か来る終わりを思うだけで、この身引き裂かれそうなほど胸が痛むのに、どうして自分からこの人の傍を離れられようか……。



こうこうと照らされた部屋の障子に絡み合う二つの影が映る。
その、部屋の中を満たしているのは艶かしい嬌声。
「幸彦、顔を隠したらあかんと、さっきからゆうとるやろ?」
「あ、や……あ、あかり、消して……ください」
普段なら家の者たちへの遠慮もあって抑え気味の部屋の明かりがいつもより強い事で、明かりの前に何もかも晒されることを恥ずかしがり、顔を覆おうとする幸彦の両腕を仁はそう言って布団の上に縫いとめる。
「心配せんでもこんな離れの部屋、だぁれも来うへん。恥ずかしいことなんか、なんもあらへんやろ?」
気にする必要は無いのだと判ってはいるけれど、だからと言って普段とは違うその状況をそう簡単にうけいれられるはずも無い。諭されるその言葉に二人きりの夜を強く意識し、余計に羞恥を煽られて躯が火照る。そんな自分の浅ましさを否定するように幸彦は嫌だと言いたげに思わず頭を左右に振った。

「俺だけや、いつもは見られへんお前の顔、今夜はぎょうさん見せてくれ」
そう言って繋がったままの内側を更に深くえぐる様にして揺さぶられた。
「あっ、あっ、あっ…やぁ……んっ……あっ」
欲望のまま中をかき乱されて堪えきれない声が漏れる。
「そのかわいい声も、今日は存分に聞かせてくれ」
そう言って笑う仁の声も普段とは違う場所での情事に、いつもより興奮しているのだろうか、どこかかすれて聞こえる。

力強く抜き差しされる熱塊。狭い器官を隙間無く埋められる圧迫感に始めのうちはいつも息が詰まりそうになる。しかし、快楽に慣らされた躯はそれでも足りぬと言いたげに更に貪欲にその熱を追い求めるのだ。強すぎる悦楽に震える躯を止める術も無く幸彦はただ流れに身を任せることしか出来なかった。
重なる肌から伝わるその温もりがいつもより熱く感じられるのは、普段とは違う場所で行う淫らな行為に、互いの感情が必要以上に昂ぶっているためなのだろう。

あぁ、このまま夜明けなど来ねば良いのに。
許されぬ恋だと罵られても離れる事がかなわぬほどに、精神(こころ)にも躯にも互いの存在を深く刻み付けてしまった。

夜が明けるのを止められぬのならばせめて、今宵は許される限りこの躯を、この温もりを肌に感じていたい。
きっとどちらもその思いは同じであったのだろう、切り裂かれた半身を求め合う様に、この部屋の灯りは、明け方近くま消えることは無かったのである。



     年を経て尚も想い募らせる 蛍火(けいか)の様に 儚き夢でも
後 記
久しぶりの仁x幸彦シリーズです。
お盆休みに家族旅行に行ってて思いついたのですが、どうしてもこの二人の話は物悲しい雰囲気になってしまいますね。

今回イメージしたのは兵庫県にある有馬温泉ですが、自分が実際に有馬に行ったことは無いので。いろいろな方の話を聞いていて有馬温泉以外の温泉地の情景も若干混じってます。

蛍の種類はゲンジとヘイケの2種類が有名ですが、ヘイケの方は生息時期が遅いのでお盆のころでもまだ飛んでいると思います。ただ、山間部には生息しないらしいので、作中に出てくるのはゲンジボタルという事にさせていただきました。

私が住んでいるK県には蛍の生息している場所がいくつかあるので毎年7月の頭ころ、家族で蛍狩りに行きますが、暗闇でついては消えて、またついては消える仄かな明かりは、いつ見てもやはりどこか物悲しい物です。

イラストは「nil admirari」の六平(ムタカ)様にBXB Search!の絵師企画で依頼して描いていただきました。

このまま本の表紙に使えそうです、なんて素敵なのでしょう、感涙(ノД`)

今回この二人を六平様にお願いしたんだよ〜と某所で言ったら、『二人が出会ったばかりの子供のころの幸彦を見てみたい!』と言ってくれた方が居たのですが……。

む、六平様の絵で、子供の頃の幸彦……

な、なんぼか、可愛かろう……(*´д`*)ハァハァ

六平様、忙しいところを色々お気遣いありがとうございました。素敵な二人に仕上げてくださって。私、なんて幸せ者なんだ〜〜。

ニル・アドミラリ

六平様のサイトはバナーよりどうぞ。多くは語りません、どうぞあなたもパソコンの前で身悶えてください(笑)


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