い つか貴方に逢う日まで

Vol.15

ピピピとかすかな電子音に促されるようにもぞもぞと布 団が動きだす。やがて中から顔だけを覗かせ、直弥は どこか心配 そうに自分の様子を伺う男に物憂げな視線を送った。
「どうだ?」
問いかける男の目の前に、先ほどまで脇の下に挟んでいた体温計を差し出しだすと身体の向きを変えて直弥はゆるく瞼を閉じる。
「7度8分か……」
受け取った体温計の電子表示の数字を見て、ふむ…と小さな溜息混じりに呟く男の声をどこか夢うつつに聞き直弥は男には聞こえないくらいの小さな溜息を付い た。




―― 翌朝直弥は熱を出した。

実際に自分が体感している体温よりもずっと身体がだるく感じるのは、昨夜のうちに必要以上に体力を消耗してしまったからに他ならな い。
あの後、直弥が部屋に戻るとそれから殆ど間を置かずに男は部屋にやって来て、いきなり直弥の寝ているベッドの中にもぐりこみ『さっきの続きをしよう』 などと言い出したの だ。
男の取った態度から、こうなる予測は出来ていたが、それでも時間が時間だ。一旦やり始めると下手をすると朝まで寝かせてもらえない可能性もある。仕事は? と問いただしたが、とっくに終わっていたと軽くいなされただけだった。あわてて他の口実を思い浮かべようとしても咄嗟には何も出てこない。むろ ん、どんな言い訳を並べてみたところでその気になってしまった男の気持をもう一度覆せるほどの確固たる理由を見つけることなど直弥には無理なことなのだ が。
それでもすぐに答えを出すのは悔しくて、ぐずぐずとぐずり続ける直弥の耳元に唇を寄せて、ナオと男は猫なで声を出す。

耳元に触れる濡れた唇の感触と耳孔に吹き込まれる甘い声。
直接的な誘いの言葉など無くとも、それだけで体温が上昇ししっとりと躯が汗ばんで来た。
直弥はわずかばかりの抵抗にと、布団の中で身体を丸めて背中を向けた格好のまま暫くじっとしていた。そんな直弥の耳元で男はもう一度名前を呼ぶ。強引にや るつもりは無いようだがこちらが我を張りすぎるとそれを何処まで許してくれるかわかった物ではない。「ナオ」ともう一度名前を呼ばれて直弥はやっと観念し たように僅かに頭を動かし視線を送った。

「ちゃんとこっちを向いてごらん、直弥」
何拗ねてるんだ?そういって問いかける男の声は不機嫌そうではなく、むしろ今のこの状況を存分に楽しんでいるという風にどこか弾んでさえいて、それが直弥 の態度をまた頑なにさせる。

「無理矢理されて辛いのと、優しくしてもらって気持ち良いの。どっちがいい?」
笑いながら投げかけられた男からの拒否権の無い選択肢に憮然とした。どちらを選んだとしても結局はやられるのだ、ならば優しくされる方が良いに決まってい る。そう思い直弥 が無精無精身体の向きを変えると、男は優しく微笑んでいい子だと額にひとつ口付けをくれた。
「口あけて、直弥」
その後即座にそう言われてそれとは逆に唇を一文字に引き結んだ直弥を見ると、男は僅かに瞠目し小さく笑う。
「ナオ、もう一度言おうか?」
先ほどよりも幾分強めの口調。それでも男の顔を睨みつけるようにして更に硬く唇を引き結ぶ。男は今度はそれに肩をすくめ呆れた顔をする。
「ナオ……」
前髪を掻き揚げるようにして頭をなでながら短く名を呼ぶその声音はあくまでも優しげなのに、どこか有無を言わせない強さがある。直弥はうーと低く唸 るとそれでやっと観念したという風にわずかばかり唇を緩めた。
そのとたんまるでからかう様に上唇をかすめ口付けられ思わず顔を背けてしまう。しかし、これ以上逃げる事は許さないと言いたげな男の手に頤を強く握り締め られて、痛みから来る恐怖に顔が 歪んだ。動きの止まった直弥の身体の上に、男は自分の身体を圧し掛からせ完全に身動きを封じると、拒絶の言葉などもう聞 く耳は持たないと言わんばかりの甘く濃密な口付けを直弥に浴びせかけて来たのだ。

噛み付くように荒っぽい口付けの、角度が変るたびに立ち上がる濡れた音。口付けが深くなるにつれ乱れる息遣いに否がおうにも身体は昂 ぶっていく。仕事部屋 を出る前 男から受けた濃厚な抱擁の後、置き火のようにずっと直弥の中 でくすぶり続けていた小さな火種が再燃するのに時間などかからなかった。
嬌艶の宴は明け方近くまで続き、最後には気を失うようにして眠りについたのをうっすらと覚えている。


「おいで直弥、あちらの部屋に布団を敷いた、今日は誰も来る予定ないからここでなくても平気だ」
身体を起こす事すら本当はだるくて仕方ないのだけれど意地を張る元気もまた残ってはいなかった。
促されるままベッドの上で身体を起こし立ち上がろうとする。足元のおぼつかない直弥を気遣うためか身体を抱きかかえようとするのを、羞恥心が先行し大丈夫 だからと思わず拒絶してしまう。それでもなお差し出さ れたその手を 払いのける事だけは出来なかった。

連れてこられた場所は、昨夜男が入ることを許可してくれた仕事場の片隅にある畳敷きのスペースの事だった。
衝立のような仕切りを全部開くと4畳半ほどの畳の空間が現れる仕組になっているらしい。おそらく仕切りを全て閉ざしてしまえば1つの部屋として成り立つよ うに作 られているのだろうその奥には小さな収納スペースも付いている。
昨夜はその仕切りが全て閉じられていたたためそこが部屋だという事に直弥は気付かなかったのだ。
家具などの物が殆ど置いていないところを見ると普段はめったに使われないのか、それとも眠る間も惜しむくらい仕事が立て込んでいるときの仮眠スペースにで もなるのだろ うか。

 「ここなら様子もわかるし、部屋が明るいからいいだろ?」

直弥はその言葉に頷いて見せると、男が用意してくれた布団の中に大人しくもぐりこんだ。 部屋数が一度では数え切れないほどあるような広い屋敷でもないのだから、どの部屋にいてもさしてかわりは無いと思うものの、思いがけずに何かがあったとき のために人 の気配が近いほうが安心できると言うのは否めない。

「智史……これ……とっていい?ちょっと苦しい」
首に付いたままになっている首輪を軽く引っ張って見せると、男はそれを見て僅かな戸惑いを見せたものの直弥の体調を慮ってくれたのか結局はその願いを聞き 入れてくれた。
あってもなくても本質的にはさほど影響は無いと思うがやはり気持ちが違う。数時間ぶりに訪れた開放感に知らず表情が緩んだ。 普段はあれほど奔放で傍若無人に振舞うのに、こういうときの男は直弥に対してかなり過保護で甘くなる。体調不良の原因はおそらく自分にもあるのだと罪悪感 も あるのかもしれないが、本当は普段からもっと自分のことを構いたくて仕方が無いと言う気持ちが根底にあり、それが、こちらが弱るのを見るとここぞとばかり にこんな形で現れるだけなのかもしれないと そんな風に思えなくもなかった。

「張りきり過ぎたか?」
「……だから、もういいよって何度も言ったのに」
場を和ませようとするともりなのかどこかおどけた調子でそんな台詞を吐く男の顔を、恨めしげな視線でチラリと一瞥して直弥は拗ねたように頬を膨らませる。 一度だけだと約束したはずなのに、案の定行為が始まるとそれだけでは終わらなく て結局は男の気の済むまで散々啼かされてしまうことになった。

「直弥が相手だと歯止めが利かなくなる、どうしてだろうな?」
「知らないよ、そんなの!!」
泣き顔が可愛いからつい…などと、聞いているこちらが赤面するような一言をどうしてそう臆面もなく言えるのか。最後は結局許してしまった自分も自分だけれ ど、もう少しこちらの身体の事も考えて欲しいものだなどと愚痴の1つもつい言いたくなる。終いには、もしかして最初の行為が中途半端だったことへの仕返し ではないかとそんな事まで考えてしまって自分の考えの馬鹿らしさになんだか嫌気がさしてしまった。 煽ってしまったのは自分、本当は男ばかりを責められない。

そんな直弥の心中などさして気にも留めぬ風に、大人しく寝てるんだぞと言い含めるようにして男は仕事を始めた。体調が優れないとは言 え熱はさほど高 いわけじゃない。布団の中でただ大人しく寝ているだけの状態はすぐに飽きてしまって直弥は布団から鼻先くらいまでを上にだし仕事をしている男の観察を始め た。

今男が何をやっているのか実際は直弥の寝ている場所からは全く確認する事は出来ないが、男の顔つきだけはうかがえる位置にいる。パソ コンのキーを叩きなが ら難しい顔をしていると思えば、一変して鼻歌が混じりになり頬が緩む。どうやら今日の男はずいぶんと機嫌が良いらしい。やはりここ に人がいると気になるのだろう、時折思い出 したようにこちらを見て笑いかけるも のだから直弥もそれに釣られて笑ってしまい、しだいに腹を立てていることすら馬鹿らしくなった。

何気なく男の口元に視線を移したいつの間にか何か咥えているのに気付く。煙草よりももっと細い白い棒状の……。
なんだろうと、良く見ているともごもごと口を動かし時々取り出してはまた 戻す。大き目のビー玉状のキャンディらしい。本当は煙草が吸いたいくせに、ここに自分を寝かせているから気にしているのだと気付いた。あまりにも不釣合い なその姿がおかしくて直弥は思わず 男にわからないくらいの小さな笑い声を上げてしまう。

「智史。煙草吸ったって、俺平気だよ?」

「―― 直弥はそんな余計な事気にしなくても良いんだ、大人しく寝てろ」
無理しなくていいのにとそのつぶやきが聞こえたのだろう、男は一瞬ムッとした顔をしてそう言い放った。その姿がおかしくて直弥はまたこっそりと笑ってし まう。体調が優 れないから少しでも環境のいい場所をとここを提供した手前、自分が煙草を吸って空気を汚すのは気が引けるとでも思っているのだろうか?変なところで 律儀な男の態度に笑がこみ上げてくるものの、そこに自分への気遣いを感じ取ってそれが嬉しくもあった。男のこんな小さな心遣いを気付くことが出来るように なっただけでも自分の選択は間違っていないように思えてしまう。

横になってじっとしていると明け方近くまで寝かしてもらえなかった事ともらって飲んだ薬の効果か、時折すぅっと睡魔に引き込まれる。 体調が悪いのは判り きった事だからここで寝てしまったと ころで機嫌を損ねてしまうことはないだろうが、男が仕事をしている側で無防備な状態を晒すのもまた気が引けた。

それでも、パソコンのキーを叩く規則正しい音が子守歌代わりになりいつしか浅い眠りの淵をただよっていたようだ、ふと身近に人の気配 を感じ薄く瞼を開く と、いつの間に傍に来たのか目の前に男の顔があった。
「用事が出来た、少しの間出て来るけどいい子で待ってられるか?」
直弥は考えるようにゆっくりと数度瞬きをすると、どこか気遣わしげにこちらを見ている男に小さく頷いてみせる。
男はそれで笑顔を見せて、労わるような優しい手つきで直弥の頭をなでてくれる。

いつも自分より少しだけ体温が低く、かといって冷たいと言うほどではない綺麗な指。今日は熱があるせいなのかそれがとても心地よく感 じる。
もっとさわって、と言いたげに掌に頬を摺り寄せる直弥のその姿に男が目を細める。男は離れがたいと言いたげにしばらくの間は頭をなでていたが、 い つまでもこうしていても埒があかないとでも思ったか、やがて諦めたように手を離し 外出 の用意を始め た。

「なるだけ早く帰ってくる、大人しく寝てるんだぞ」
出て行く間際、どこか躊躇いがちにそう声をかけられた。
 「……ン、お土産買ってきてね」
待ってるからとはあえて言わない、それだけで判ってくれるだろうと思ったから。その言葉を聞くと男は微笑んで直弥の額に軽く唇で触れ、名残惜しげにもう 一度 頭をなでた。
それからゆっくりと立ち上がり静かに部屋を出て行く。玄関のドアの鍵を閉める音が止んだ後は嘘みたいに部屋は静かになった。

 普段なら男が自分を一人残して出て行くといつ帰ってくるかが気になって妙に落ち着かないものなのになぜかこの日そんな不安定さを自 分の中に微塵も感じら れなかった。もしかすると自分の身体を縛り付けるものが何も無い状 態であることが直弥の不安を軽くしているのかも知れないが、自分を置いて出て行ったままあの男が帰ってこなくなるはずがないと強く信じられるのはどうして だろう。

 今ここを出て行くことは馬鹿みたいに簡単に違いない。男が側にいないだけではない自分の動きを遮る拘束具も鍵の付いた部屋も無い。 玄関の鍵がどうなって いる か確かめたわけではな いがおそらく中から開け閉めできる普通のものだろう。今ならば出て行こうと思えば何処にだって簡単に出て行くことは出来るはず。
あんなに待ち望んでいた解放の時だ。なのに、そうしようとはなぜだか思わなかった。もしかすると与えられた最後のチャンスなのかもしれない。

母親、父親、それから兄と姉、それから大学の友人たち。ずっと姿を見せずにいることで心配をかけているだろう人達の顔が次々に浮か ぶ。今ここで自分が姿 を現せば彼らを安心させる事が出切るに違い無い。しかしそれは、言い換えればせっかく苦労して築きあげた、あの男との生活をここで終わりにするという事で もあるのだ。 

 どうしてあの男のことが、ここまで気に なるのか直弥自身にも良くわからない。ただ時折見せる彼の悲しい瞳が、本当は自分の事を救ってほしいと訴えているような気がしてならなくて一人にすること を躊躇わせる。強制されたのでもなく、脅されたわけでもない。傍にいたいと思ったのは自分だから、誰に馬鹿にされても 蔑まれたとしても、今は離れてはいけないのだとそう思わせるほどに。

……ごめんね、父さん、母さん。今だけ、もう少しだけ、あの人の傍にいさせてよ。
いつか、必ず元気で帰るから。

ひとりひとりの顔を思い浮かべながら、直弥は心の中でそうやって何度も詫びたのだ。


 部屋に一人残され、どれ位時間がたったのだろうか、急に意識が浮上した瞬間とほぼ時を同 じくして男がこの部屋に帰宅して来た音を捉えて、いつの間にかすっかり寝入ってしまったらしいことに気付く。
玄関ドアが閉まる音がして、足音がゆっくりとこちらに近づいて来るのが判る。起きるべきかどうしようかと寝起きの頭でぼんやりと考えている間に部屋のドア が静かに開い た。
「お帰りなさい」
男が部屋に入ってきたのと同時に声をかけた。男は一瞬だけ驚いた顔をしたがはまるで直弥のその笑顔に釣られたように僅か に ぎこち なさの残る笑みを 零す。
男がこのここを出て行くときにはまだ明るかった屋外は目覚めてみれば夜の帳が下りる時刻だ。早く帰るといって出かけたものの思ったより外出先で手間取って 時間 を食いこんな時間になってしまったのに違い無い。

男はまっすぐにこちらの方に向かってくるとしゃがみこんで真っ先に額に手を添えて来た。布団の中で直弥がじっとしているのをまだ具合 が悪いからだと勘違い したようだ。額に自分の手を当てて、再び体温計で直弥の熱を測り終えるとやっと納得したように笑顔になる。

「大丈夫そうだな」
額にかかる髪の毛をかき上げるようにして頭をなぜ笑う男に「うん」と短く返事を返す。

男はそれから思い出したように手にしていた小さな箱を直弥の目の前に置いた。見覚えのある箱、直弥自身何度か利用したことのあるデパ 地下の洋菓子店の名前 が入った紙箱だ。
ゆっくりと起き上がって箱と男を見比べた。

「あけて、いいの?」
 ああ。とそっけない返事と何処となく照くさそうな顔。そのアンバランスさに自然と口元が緩んでしまう。
 箱の中にはプリンが1つ入っていた。熱があっても食べられるものをとこれを選んでくれたに違い無い。自分の言った「お土産」と言う言葉を忘れずにいてく れた、それ ももちろん嬉しかったが、もしかしてこれを選ぶために帰りが遅くなったのだろうか?そう思ったとたん、ショーケースの前で眉間に皺を寄せてどれを買って帰 ろうか悩む男の姿が目に浮かんでおかしいのに、真面目に選んでくれたことを考える と笑えなくてどうすればいいのかわからないでいる直弥を様子を見て男は何か勘違いしたのか先ほどとは違い少し表情が険しくなっている。

「嫌いだったか?」
「違うよ、大好き……今食べていい?」
あわてて大きく首を横に振る。男はそれでやっと安心したような顔になり、直弥の寝ていた布団の上に腰を降ろすとその身体を自分の方に引き寄せて肩越しに箱 の中を覗き込んできた。今まではこういう体制にどこか気恥ずかしさを覚えていたが今日はなぜだかあまり気にならなかった。

「―― 美味しい」
蓋を開けると漂ってくるバニラの甘さと、少し焦がしたカラメルの香ばしい香り。一くち口に含んで思わずそう呟いた。わけもわからず目頭が熱くなる。
どうしよう、なぜか判らないけどすごく嬉しい。さして珍しい食べ物なわけでもないそのプリンが、普段食べる時よりずっと美味しく感じてしまうのはどうして なんだろう。
「美味しい、すごく美味しいよ……ほら」
直弥は食べていたプリンを一さじ掬い上げると、男を振り返り目の前に差し出してみる。男はそれを見ると一瞬目を丸くした。
「俺は……」
「甘いの嫌いじゃないよね?だってさっきは仕事しながら飴食べてた」
食べないの?と言いたげに首をかしげ男の顔を覗き込む直弥を前に、男は照れくささと困惑の入り混じったような複雑な笑みを零した後何処と無くぎこちない様 相で目の前に差し出された匙の上のプリンを口にする。
それを見て嬉しそうに笑った直弥はその直後に「え!?」と驚愕に満ちた声を上げた。

まるで縋りつくように強い力で男の腕の中に抱きすくめられた、その反動と驚きでプリンのカップが直弥の手の中から床の上に転がり落ち る
「さ、智史……?」

よかった、直弥がここに居て。

直弥の肩に顔を埋めるようにし聞こえてきたのは消え入りそうなほどの小さな小さなそんな呟き。直弥は驚きに目を瞬いて、しばらくはそ のまま微動だにしな かったが、やがて宙に浮いていた手がぎこちなさの残る所作でゆっくりと男の背に廻される。その身体を腕に中に抱き締めるとなぜか 鼻の奥がツンとした。

 待っているからと言う意味合い の言葉を投げかけはした。それでも、拘束具もなく、 部屋に鍵もせず、かなり長い間直弥をひとり残し家を空けたのは二人で生活をするようになってからはこれが初めてのこと。帰ってきた時は普段通りの顔で己の 胸のうちの不安などおくびにも出さなかったのに本当は不安で仕方がなかったのだと、その一言が男の胸のうち全てを物語っていた。

「何処にも行かないって言ったよ、俺」
いいながら頭を抱きよせる腕にもう一度力をこめる。スンと鼻をすすり上げて男は微かに頷く。まるで小さな子供のように。
どうしてこの人は時折こんな風にとてつもなく弱い部分を自分の前にさらけ出すのだろう。
普段の男からはとても想像出来ない頼りなささげなその姿が直弥の心をかき乱す。

仕事では成功を収め、常にトップクラスの位置に君臨していて怖いものなど何も無いように見えるのに、冬の静かな湖の上に薄く張った氷 のようにいつ壊れてし まってもおかしくないほど、脆くて崩れや すいのは本当なこの人の方なのかもしれない。そう考えると自分よりずっと年上のこの男が今はとてつもなく幼く見えた。

それ以上なんと声をかけたらよいか判らずに、二人してそのまま微動だにしなかったが、やがて男はゆっくりと躯を起こすとどこかきまり 悪そうな顔をしたまま 黙り込んでしまった。落ち着きを取り戻したとたんに、取り乱した自分を思い起こし次第に羞恥心が勝ってきたのだろう

直弥自身もそれ以上なんと声をかけていいかわからずに、二人の間にしばらく気まずい沈黙が流れた。

「―― あ、プリン……」
食べかけのプリンの存在をふと思い出し独り言みたいに直弥が呟く。
抱き寄せられたとき反動で手の中から取り落としてしまったプリンのカップは落ちたときの角度とタイミングが悪かったのだろう、かろうじて布団の上は免れた 物の部屋の畳の上でうつぶせの状態で放置されていた。
できるだけ中身を零さないようにするつもりでそろりとカップを起こしてみたが、柔らかめの中身は器を持ち上げようと傾けた瞬間殆ど床の上に零れ落ちてしま いとても食べられるような状態ではなくなってしまったのだ。

「あ〜ぁ……まだ半分くらい、あったのに……」
落胆の色を顔に滲ませ軽く唇を突き出して心底残念のそうにする直弥の子供っぽい所作に、男が思わず苦笑交じりの笑みを零す。
「ほんとに好きなんだな。プリン」
「なんだよ、子供っぽいって笑うのかよ」
嬉しかったのに『お土産』の言葉を忘れないでいてくれた事も、それが自分の好物だった事も。
「そんなに食べたいんだったら、あるぞ」
「え!?」
「俺の鞄の中にもう1つ入ってる」
男はそう言って立ち上がると椅子の上に置いてあった自分の鞄の中から小さな紙袋を1つ取り出して直弥の目の前に差し出ししてみせた。折り曲げた紙袋の口を 開くと男の言うとおり中には先ほどと同じプリンが1つ入っていた。
「あ、後からこっそり食べるつもりだったんだろ」
一緒に食べようと思って買ってきたならわざわざ別にする必要はないはずだ。ずるいよと拗ねてみせる直弥に男がまた小さく笑みを零す。

「そういうつもりは無かったんだが……こっちはお土産で直弥の分、そう思ったから箱に入れてもらった。でも1つだけだと直弥は絶対自 分一人じゃ食べないっ て言い張る気がしたから」
だから思いなおしてもう1つ買ったから別になってしまったのだと男は言うのだ。
その言葉を聞いたとたん直弥は急に恥ずかしくなる。せっかくそんな風に気を使ってくれたのに、好物のプリンを食べられなくなったのは智史が悪いのだと子供 じ みた我侭で男一人をなじっているような気持ちになってしまったからだ。凄く大人気ない事を言ってしまったような気がして、恥ずかしさも込み上げて次第に頬 が火照り始める。今度は先ほどとは逆に直弥の方が黙りこくってしまった。

「俺はいいから直弥が全部食べればいい」
「じゃぁ……はんぶんこしよう?」
一緒に食べた方が美味しいよ?そう言って笑う直弥に男はやはり苦笑交じりの小さく笑を零したが、それ以上は特にその言葉を退ける様子もなく。あぁ、と頷い てくれたのだ。

その後一緒に食べたプリンはやはり今まで食べたどのプリンよりも美味しい気がした。たかがプリン1つで手名付けられている自分を単純 だと思う。でも、男も 今の自分と同じ気持ちを共有してくれているならもっと嬉しいとそんな気持が湧き上がってきたのも事実。

出て行かなくて良かったと直弥は思った。
突然与えられた願っても無いチャンスだと、それにばかり目が眩んで男を残し出て行かなくて良かった。ここで男の帰りを待っていなかったらまた1つ男の優し さに気付くことも なかった。
男のこころの奥深くに潜む闇を全て解放する事は未熟な自分には到底無理だ。それでも自分が傍にいる間にそれが少しでも軽くなれば嬉しいのにと直弥はこの日 心の底からそれを感じていた。


願わくば、この時が少しでも長く続きますようにと。

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