いつか貴方に逢う日まで

Vol.12

それからだ、男が仕事で出て行った後にこの部屋へ一人 取り残されても不安をほとんど感じなくなったのは。
むろん本当に自分の身辺に何かがあった時には、耳朶にあるピアスがこの身を守ってくれるはずもないことなどわかりきっているが、男がここに帰ってくるまで の 間にわけも無く不安な 気分になったりすると、そこにその存在を意識した瞬間『ここに居るだろう?』と囁く声が聞こえるような気がしてなぜか気持ちが落ち着くのだった。

おかしいと自分でも思う、毒されている……あの男の存在に、あの男自身に。

あの日の痛みを忘れたわけではない、ここから出して欲しい、出て行きたい。この関係を終わらせたい。その思いはいまもまだ変らずにあ る。
なのに、それとは全く相対する気持ちも最近自分の中に存在し始めていることに直弥は気付いていた。自分よりずっと年上の男、なのに、なぜかそばにいて自分 が彼を守ってあげないといけないようなそんな気持ちにさせられることが度々あるのだ。
 いつ爆発するかわからない危ういまでの凶暴性と、それとは全く相対する、儚さや脆さ。
まるで多重人格者のように突然現れては消える、彼の多面性が直弥の心を深く捉えまた同時に落ち着かなくもさせる。

二人の関係が以前とどこか違ってきているところがあるとすれば、直弥自身があの男を本当の悪人だと思えなくなってきていることだろ う。
あの男のことをもう少し知りたいと、知ればまた何かが変るのかもしれないと、直弥はそんな風にも思い始めていた。何かもう少しそのきっかけになるものが欲 しいのだと……。



「留守にするって……どういうこと?」

その日男は普段よりも少し早めの帰宅だった。男は直弥の顔を見るなり、しかし、どこ か言い辛そうに、しばらくこのう ちを空けるからと言い出したのだ。今までどんなに時間が遅くなっても必ずここに帰ってきていた、留守にするなど一緒の生活を始めてから初めてのことだ。

 「急ぎの仕事が入った、期限まで時間が残っていないのにデータ内に大きなミスがあることに今頃気付いたんだ」
 詳しい事情を話しても直弥には理解できないと思うのかそれ以上はなにも言ってはくれないものの、どこか余裕の無い切羽詰まった表情か ら、それが どうして も外せない用だということだけは 感じ取れる。
 「出来るだけ早めに終わらせて帰ってくる、それまで少しの間ここで1人で……」
 「や、やだよっ!!」
 途中まで言いかけた男の、その台詞をさえぎるように直弥の口から思わず出てきた拒絶の言葉。
 「だ、だって。いつ帰ってこられるかわからないんだろ?ここから出してもらえるわけでもないのに、智史帰ってくるまで俺1人でここに いろなん て酷いよ。智史は……俺が毎日、智史の帰りをどんな気持ちで待っ てるかなんて全然わかってないんだ、だからそんなこと平気で、言えんだよっ!」  
今まで溜まっていた鬱憤を吐き出すみたいに一気にそこまでまくし立てると直弥は、強気の姿勢でそのまま男の顔を睨み据えた。男が瞠目したまま直弥の 顔を凝視している。まるで拒絶の意味がわからないとでも言いたげなその顔を見て今度は悲しくなった。

「お、置いてかないで連れてってよ。俺……智史の邪魔にならないようにいい子にしてる、言いつけもちゃんと守る。だからお願い」
おかしなことを言っている自覚はちゃんとあった。今自分のいった言葉を逆手に取って後でとんでもない要求をされるかも知れないと、それを懸 念しなかったわけではないが、ここにおいてけぼりにされいつ帰ってくるか判らない男の帰りを心細い思いをしながら1人で待っているよりはずっといいように 思えた。  しかし、直弥の言い分を黙って聞いていた男が何も言わず部屋を出て行くと、今度は怒らせてしまっただろうかと急に不安になる。    

ほどなくして男は手に何か液体の入ったグラスを持ち部屋に戻ってくるとそれを直弥に手渡し、飲めという風に態度で示唆して来た。  
「これ……なに?」
「いいから、飲んでごらん」
不安げに男を見上げる直弥を見るその目は限りなく優しい、直弥は思わず手にしたグラスの中身と男の顔を見比べてしまう。

……なにが入ってるんだろ?
グラスの中身。見た目は普通のオレンジジュースのような感じだが、そんなものをこの男が今何の意味もなく自分に手渡すとは到底考えられない。中に何か溶か してあ ると推測してしまうのは当然だろう。

「俺の言いつけちゃんと守るって言っただろう?」
口にする踏ん切りがつけられずしばらく躊躇していると、拒絶しづらくなるそんな一言を投げかけられた。ずるい…と思いもするが、先にそれを言い出したのは 自分な のだから反論も出来ない。直弥はもう一度男の顔を見 つめ た後、苦い薬を口にするときの様相で眉を潜めグラスの中身を一気に飲み干した。
飲んだ直後は特に何の変化も感じられなかった。液体の味も普通のオレンジジュースと変わりなくて、なんとなく騙されたような気持ちにもなる。何が起こるか わならなぬまま、し ばらくは半信半疑で部屋のベッドの上に 腰掛けて いたが、やがて襲ってきた自分の身体の異変に気付いて直弥は慌てた。

いきなり、ぐらりと身体がかしぐほどの異様な眠気。
「え……な、に……これ?」
とにかく眠いのだ、無理矢理目を開けていようと思っても、知らず知らずのうちに自然と瞼が閉じてくる。
やはり、あのジュースの中には何か入っていた、かなり即効性のある睡眠薬のような眠気を誘うもの。

突然直弥を襲って来た言いようの無い不安。
直弥は思わず、自分の横に腰掛けていた男の首に縋りついた。
「い、嫌だよ……さと、し……俺のこと置いてっちゃやだ、1人にしないで」
情けないくらい頼りなさげな声でそう懇願した。もしかして、眠らせておいてその隙に黙ってここを出て行くのではとそんな風に考えたのだ。
「置いていくなんて誰も言ってないだろう?向こうに着くまでの間寝ててもらうだけ」  
宥めるように背中をなでながら、優しい声音でそう囁かれたがそれでも不安は消えなかった。だから尚更縋りつく腕に強く力が込められてしまう。
 「いい子にするって最初に言ったのは直弥だ」
 男は笑いながら念を押すようにそういった。判っている、判っているけれど眠りたくない、眠ってしまって眼を開けると自分一人だけが取 り残され ているような気がする。
全て身を任せ信頼できるという相手ではないのだが、今の直 弥にはこの男以外に頼る人間はいない。  『置いていかないで』と意識が完全に遠のく間際、もう一度そう言った覚えがある。

気が付くと既に見知らぬ部屋の中にいた、体に違和感を覚えて手足を動かし、自分の置かれている状況にかなり ショックを受ける。連れて行っ てもらえたとしたら、多分それ相応の処置はなされると予想はついていたが実際はそれ以上だった。手足の枷だけでなくご丁寧に首輪まで付けられている。しか も念には 念を入れてと言わんばかりに口のボールギャク。更に一糸まとわぬ姿でタオルケットに包まれるようにしてベッドに寝かされていた。 部屋のドアの開く音に視線を送ると男の姿が見え少しほっとした。 せめて口枷だけでもはずしてほしいと言いたかったが、まともにしゃべることが出来ない状態では自分の意思を伝える事もできない。

「大人しくしてるんだぞ」
恨めしげにみつめる直弥の視線に気付いたのだろう男は小さく笑うと直弥の頭をくしゃっと撫でて、  耳元で囁くようにそう言って額に軽く触れるキスをした。同意を求めるように視線を送る男に直弥は仕方なさげに小さく頷いてみせる。

男が部屋を出て行くとまるで気が抜けるように虚脱感に襲われ直弥はベッドに躯を横たえた、 かすかに伝わってくる人の気配。同じ屋根の下に自分達以外の人間がいる。 少しやりすぎに思える猿轡や首輪は、近すぎる位置に居る第三 者の存在に過敏になっている男の気持ちの湾曲して現れたものだとそう思えば今のこの仕打ちも少しは赦せる。

でも、これはやり過ぎ……後で絶対文句言わなきゃ。
まだ完全にクスリが抜けきっていないのだろうぼんやりとした意識の中で、そんな由無し事を考えながら、直弥はまた次第に眠りの淵へと引き込まれていった。

そのまま、しばらく眠っていたようだ。 ふわり、と波間に漂うように浮遊している感覚を躯が先に捉えた。
 耳に届いてくるどこか懐かしく優しいメロディ。声の主は男だろうか?
 歌に合わせるように髪を撫でる指の感触を心地よいと思う。直弥が軽く身じろぎをするとそれを察し、歌がぴたりと止んだことを残念に思 う。ゆっくりと 瞼を開くと男の膝を枕にするような格好で寝ていた。思わず飛び起き男の顔を凝視する。 じゃらり―― 体を動かすたび触れ合う金属音にまだ繋がれたままである事を悟り少しショックを受けるが、口枷がはずされている事はすぐに判った。
「ひ、酷いよ智史、俺のこと全然信用してくれてないんだろ、いくら言うことを聞くって言ったからってここまですること無いじゃなっ ――」
沸きあがってきた感情に任せまくし立てたら、そこで何故か急に涙が出てきた。
「どうして、そこで泣く?」
「わかんないよ……。俺だって、泣きたくて、泣いてるわけじゃ……」
普段は平気で酷い事をするくせに、自分の想定していない突発的なことには俄然弱いらしく、こういうとき男は酷く驚く。困惑気味の表情で突然泣き出した直 弥のことを後ろから抱き か かえるようにして自分の膝上に抱き上げると、直弥を宥めるように首筋や髪の毛に口付けを繰り返しはじめた。
「泣くな。直弥に泣かれると、どうしていいかわからなくなる」
 「俺のこと、いつもこんな風に……泣かせるのは……智史の方じゃないか……」
言ってることとやっていることがすごくちぐはぐだ。 軽くすすり上げながらそう言って抗議すると、更にぎゅっと抱き締められた。
 「……そうだな、悪かった。少し神経質になりすぎたかもな」
 おもわず耳を疑った。 初めて聞く男からの謝罪の言葉だ。今までならこんな時、謝ることはおろか自分を宥めるような言動を男が取ることはなかった。 自分だってそうだ、男にこんな風に認めてもらえないことを悲しいと感じることなど無かった。この男に自分の気持ちをわかってもらおうと考えるなど無駄なこ とだと思っていたから。何かが少しずつ変化している、目に見えないけれども確かに存在する相手への想い。これは何かが解放される予兆だろうか?

しばらくそんな風にして、 腕の中に包まれて宥められ少しずつ気持ちが落ち着いてくると、今度は先ほどとは反対に醜態をさらした恥ずかしさの方が勝って来た 。

「今の聞こえちゃったかな?」
「聞こえた……誰に?」
「誰か、いたでしょう?智史の他にも、もう1人」
「―― あぁ、使いに出した、そのまま外で昼も食べてくるように言ってあるから2〜3時間は帰ってこないんじゃないか?」
それを聞きほっとしてしまう自分がおかしい。やはり、相当この男に毒されているようだと直弥は気付き、いたたまれないような悔しい ような複 雑な感情もわきあがって来たが、今はまだそれも仕方が無いことだと、今この場は自分を少し強引に納得させる。

「はずしてくれるんでしょ。これ?」
「似合ってるのに」
手錠の付けられた腕を身体の前に突き出すようにして振り向く直弥に男は即座にそう返してきた。
「こんなの似合うって言われても全然嬉しくないよ」
不満げにふくれっつらをしたら、男にクスッと小さく笑われた。
おかしな会話だと思うが、今、自分の置かれている状況下ではいたって真面目な会話なのだ。それでも、 こんなやり取りも今までなら考えられなかったこと。それは自分が言う前から無駄だと諦めていたから。なのになぜか今は割りと普通に不平不満を口にでき る。 男もそれを容認しているように見える。

「はずしてよ」
ふくれっ面のままもう一度そう言った。男は眉間に皺をよせ何かを考えるような難しい顔をしていたが、やがて根負けしたと言いたげに ズボンのポケットを探りはじめ、少しして小さな鍵を取り出し直弥の手錠と足にある鎖付きのかせの鍵を外してくれた。
「これは?」
「それはダメ」
残された首輪についた鎖を手に眉をひそめてそういうと、間髪いれず拒絶されその一言に直弥がまたふて腐れる。
「飼い犬が寂しがるから連れてきてるって言ってある、だからダメだ」
「なんだよ、それ……全然理由になってないし……」
何処までが本気で、何処からが冗談なのか、全くそれがうかがい知れない表情でそう言って笑う男を見て直弥は更に口を尖らせる。この部屋に何かの気配を 感とられた時のことを懸念し、相手には本当にそんな風に説明しているのだとしても自分にまでそれを言う必要は無いだろうと思う。それは首輪をつけている 本当の理由にもなりはしない。
多分男は愉しんでいるだけなのだ、こうやって直弥のことを貶めるような事をして、自分の予想通りの反応を返すその姿を見て愉しみたいだけなのだと思う。
ここに来ている別の人間に、本当にそういったかどうかも怪しいのに、それにいちいち目くじらをたてていては神経が持ちはしない。出来るだけ聞き流すのが吉 だと自分に言い聞かせる。

「いい子にしてる、言いつけも守る……そこまで言うから直弥の我侭も聞いてあげたんだよ?」
だからこれくらいのことは承知の上だろう、とそう言いたいのだろう。男の意に沿わないことを自分が言い出せば必ずそれを持ち出されると思ってはいたが、実 際に口にされるとなぜ か妙に悔しい気持ちになる。
こんな言い方をする男が自分の方から折れて直弥の言い分を聞き入れてくれることはまずない。これ以上現状が悪くならないようにするためには直弥が無精無精 諦めるしか無いようだ。 それでもやはりまだどこか納得できなくて首を縦に振れないでいると、背中越しに大仰な溜息が聞こえた。

「やっぱり、あのうちにおいて来た方が良かったかな……」
「や、やだよ!」
呆れたような声音でそんな風に呟かれて、思わずそう返してしまった。以前ほど無茶をしなくなった男だが、いつ何時どんな風に爆発するか判ったものではな い。気を許しすぎ我を張り通したことで無理矢理あのうちに連れて帰られては理に敵わない、そうな ればきっとこの首輪で繋がれるくらいではすまないはず。と即座にそれを考えてしまう。

「ご……ごめんなさい」
気落ちした声で直弥はやっと謝罪の言葉を口にした。 背中を向けているから表情は見えないはずなのに、男がどんな顔をしているか手に取るようにわかる気がする。
決して間違ったことをしているわけではないのに、誤らなければならない今の自分の状況が悲しかった。

「ナオ」
そのまま黙り込んでしまった直弥のことをまるで宥めるように優しい声音で名前を呼ばれる。
ナオと言う呼び方は自分が子供の頃に良く呼ばれていた呼び名だった、今では殆どその呼び方で直弥のことを呼ぶ者は居ない。もしかすると今そんな風に自分を 呼ぶのはこの男くらいかもしれない。
「直弥」
気安く呼ぶなよと返事をしないで居たら、もう一度名前を呼ばれた。
拗ねた表情のまましぶしぶ後ろを振り返ると、そのまま顎を取り上向かされて口付けをされた。ペロリと舌先でくちびるを嬲られて条件反射のように少しだけ口 が開いてしまう。男の施す愛撫にすっかり馴染んでしまった、そんな自分の躯を意識すると少しだけ哀しくなる。

「――― 智史、最近そうやって、すぐキスで誤魔化す」
「直弥は最近そうやって、すぐに拗ねる」
口付けのあとそう言うと、即座にかえって来た男の言葉に直弥は思わず低いうなり声を上げた。
力でも言葉でも結局のところ男にはかなわない。それが悔しい。

「それよりも早く飯を食え、ぐずぐずしてると帰って来る」
「う、うん」
ゆっくり相手をしている暇など無いんだぞ、とやにわに急かされて、男がここにいる意味を改めて悟った。
「直弥といるとどうもペースを狂わされる」
呆れたように溜息を付き呟く声に、それはこっちの台詞だよ、と言いたい気持ちをぐっと堪えた。
言ったところでまたさっきと同じように上手く言いくるめられて終わりなのだ。それを考えると言うだけ無駄な気がする。なのに、横目でチラリとこちらを見た 男に噴出すようにして小さく笑われた。どうやられは直弥の表情に直に現れていたようだ。
『思ってるまんま、顔にでるのよね』姉にもよくそう言ってからかわれた。男もきっと今それと同じ事を考えているに違い無いそう思うとそれがまた無性に悔し くて、直弥はそんな気持ちを誤魔化すように弁当のご飯を急いで掻き込んだ。


食事が済むのを見計らうようにして、手渡されたのは先ほど口に嵌めていたボールギャグ。
「これ、やらなきゃダメ?」
「直弥、いい子にしてるって言ったのはだれ?」
強気の姿勢でいようと思っても、きつめの口調で言われて自然と身体が竦みあがった。試されているのだと言う事は判っている、ここで言う事を聞けるか聞けな いかで多分今後の対応も変ってくるのだと言う事も。

「俺のこと、やっぱりまだ信用してくれないの……?だって、これ、苦しいんだよ……口ひらっきぱなしで、のど…乾くし」

おとなしくして、何でも言う事を聞いていれば酷く傷つけられずにすんで楽なのだろうけれど、嫌な物はやはり嫌なのだ。言っても判って もらえないようなこと は、言わなければもっと判ってもらえない気がする。
だからと言って全く不安を感じないわけではなかった。男の顔をうかがい、深い溜息を吐くのを見て心臓の鼓動が早まる、難しい顔をして腕を組む姿に思わずご めん なさいと逃げ腰になる弱い気持ちも芽生えてくる。

「つ、つけてたって、大声を出せば人の声だって判っちゃうよ……?だから……いい子にしてるから……ね?」
口に嵌めても完全に声を抑えることが出来ないこういうタイプの口枷にはおそらく声を遮る以外の目的もあるのだ。そちらを優先されてしまえばいくら嫌だと いったところで聞き入れてはもらえないだろう。だから自然と男の態度に脅えつつ媚びるよな口調になってしまう。 1人取り残されることに、放置されたとき の不安感を思い出し、連れて行ってと咄嗟 に言ってしまったのだけれど、こんな思いをするならばやはりあの家で男の帰りを待っていたほ うが賢い選択だっただろうか?と考えもしたが今となってはそれも、もうどうしようもなかった。

「うっかり音を立ててしまうくらいのことならまだ許す。でも、わざとだったり、声を出すようなことを1度でもしたら……向こうに帰っ てから酷いよ?」
脅迫めいた台詞だが言い分を聞き入れてもらえたことに安堵しそれで僅かに口元が緩んだ。
「い……言いつけは守る」
「そうだ、良くわかってるね、直弥が言い出したことだからね」
すこし嫌味にも聞こえる言い方に少しムッとする物の、出来るだけそれを悟られないように直弥はわかったともう一度頷いてみせた。大声を出して助けを呼ぶこ とは多分簡単だ。しかし、その後待ち受けているものを考えるとリスクが大きすぎると直弥は思うのだ。人を呼び自分がここに居ることを誰かに知らせたとして も、男のことだここに人を1人繋いでいることへの言い訳などいくつも用意しているに違い無い。それを考えただけでもここで男にはむかうことと言いつけを聞 いて大人しくしていることのどちらが自分にとって賢い選択と言えるか十二分に察せられる。

しばらくの間は、まだどこか 少し納得の行かない顔をしていた男だったが、必要以上の言い争いは時間の無駄と考えたのだろう。やがて、仕方が無いという風に肩を竦めると、直弥の髪の毛 をくしゃくしゃとかき乱すように撫ぜて『時々様子を見に来る』と言い残し部屋を出て行って しまっ た。

男が部屋を出て行く後姿をみとどけると、へたへたとその場に座り込みたくなるほど一気に気が抜けた。
一緒にいる時間が長くなればなるだけその分男の動向もわかりやすくはなってきたけれど、ああいう場面ではやはりまだ酷く緊張してしまう。
男が部屋を出て行ってからもしばらくは何もする気が起きなくて、ぼんやりとベッドの上に腰掛けていた直弥だったが、それも気持ちが落ち着くまでの僅かの間 だけ。時間は十二分にあるのだ、こちらの気配を悟られることが無いように注意していさえすれば何をしていても許されるだろうと持ち前の好奇心で部屋の中を 見回す余裕 も出てくる。

部屋の窓はカーテンこそ閉ざされているが、特に何の変哲もない窓枠で簡単に外が覗けそうだ。
好奇心に駆られてカーテンを少しだけずらして隙間からそっと外界を伺い見た。
見覚えのあるような、それでいて全く知らない場所のような何処となく曖昧な風景が眼下に広がっている、この景色に何処となく違和感を感じるのは多分、今ま で自分がいたアパートの窓からみえていた景色とは視点が違うためだろう、その証拠に目に映るものは殆どが建物の屋根ばかりだ。

元から窓に付いている鍵は手でも簡単に開閉できる一般的な物だったが、窓枠にはそれ以外にも防犯用ロック錠が上と下に1つづつ付けら れていて鍵を持ってい る人間でなけれ ば空けられない仕組みになっていた。
もちろん普通に窓を開閉できたとしてもこの部屋の高さからすると相当大声を出さなければ下を歩いている人間に気付いてもらうのは難しいだろう、そんな事を すれ ば即座に男に気付かれる、それは今の自分にとって自殺行為に他ならないのだと言うことを経験上無意識のうちに習得してしまったようだ。

直弥は大きな溜息を付くと、早々に窓の外を見るのを諦めて、部屋の中へと視線を移した。
今すぐには無理の大きな目標は最終手段として心に留めて、今出来ることから少しずつかなえていく方が良い。
あの男のことを知りたいと思っているのは嘘偽りのない事実だ。自分と二人だけで過ごすあの空間が男にとってもっともプライベートな部分だとしたら、仕事場 であるここは彼にとってまさしく聖域のようなもの。自分は初めて その場に足を踏み入れることを赦されたのだ。そう思うとこの部屋自体にも何かが隠されているような気までしてきて俄然興味が湧いて来た。

室内をぐるりと見渡してみる中は一通り整理はされているようだが、何処かしら雑多な雰囲気がかんられるのは多分部屋に物が多いからだ ろう、壁一面に取り付 けられたように設置し てある本棚にぎっしりと詰まっている本の数々は自分とは縁遠い世界の物ばかりだ。寝室だったころの名残なのかベッドが一台置かれている所を見ると、普段は 仮眠室のような使い方をしているのかもしれない。

ふと、部屋の隅に束ねられた数冊の雑誌が目に止まった。
本棚の本の中身は自分には多分ちんぷんかんぷんで手に取る気にはなれなかったが、雑誌なら暇つぶしくらいにはなるかもしれないと、できるだけ気配を殺して そっと部屋の中を移動する、動くたびに小さな音を立てる鎖と首輪のわずらわしさを恨めしく思いながらも音を立てないよう に身長に部屋の中を移動する。積まれている雑誌はゲームの攻略本が半数以上を占めていた。自分にはどちらかと言えば縁遠い世界だと思いながらも、興味本位 で手にして ページをめくり、すぐに動きが止まった。

『数々のヒット作を生む、カリスマゲームプランナー 秋山氏の素顔に迫る』

攻略本の記事にしては比較的大きく取り扱われているらしいその特集記事、しかし本当に直弥の目に留まったのはそのタイトルの方ではな く、それに付随するよ うにある小さな写真だ。
そこに写っているのは紛れも無くあの男の顔。
秋山智史……それがあの男のフルネームであることを始めてここで知った。

秋山智史……智史が、カリスマゲームプランナー?

慌てて他の雑誌も数冊めくってみたが、そのどれにも似たような特集記事が組まれていた。
ゲームプランナー……。自分にはあまり耳慣れない言葉だけれど、ゲームの製作に関わる職種だと言う事くらいは判る。普通のサラリーマンとなどと言う雰囲気 ではないと思っていた が、掲載された雑誌書籍の数からしても、あの男はその道ではかなり名の知れた人物なのだと言う事を改めて察した。
 
その証に、彼の手がけた作品として紙面にいくつか記載されているソフトの名前は、テレビゲームなどにはさほど興味の無い直弥でも記憶に残るほど人気 があって、おそらくゲームの製作に関わった人間 が誰だかを知らなくても、作品の名前ならどこかで一度は聞いた事があるような、大人から子供まで人気のある知名度の高いシリー ズモノばかりなのだ。確かそこの上がっている作品のうちの何本かは、子供向けのアニメになりテレビで放映されていたこともあるはずだ。

今まではゲームソフトなど自分の興味の範疇外で、それを誰が製作者なのか気にすることなんて一度もなかったけれど、もしかするとゲー ム好きな友人の前であ の 男の名前を口にすれば、一度会わせてくれと頼みこまれるほどの有名な人だったりするのだろうか。

予想だにしなかった事実に直面した驚きに見出しと写真を思わず何度も見比べてしまう。
自分にとっては耳慣れない言葉と雑誌の特集記事、何もかもが非現実的でなかなか用意にはその事実を受け入れられない。 それでも掲載されている写真は確かにあの男だ。
そんな風に男の名前が取り上げられているのは何もその道専門の雑誌ばかりではなかった。女性をターゲットにした情報誌の特集記事にも 『新鋭クリエーター特 集』 などと し、かなり大きく掲載されている。

段ボール箱に詰まったゲームのソフト。一日中うちに居ることになる直弥の暇つぶしにと思い持って帰ってきたのだろうあのおもちゃが、 男本人の作ったもの だったのだというこに今更ながら気付かされる。


手にした雑誌に写る男の顔をもう一度見た。こうやって見ると、綺麗な顔をしている人だと改めて思う。
形良く、引き締まった眉に切れ長の瞳、すっきりと通った鼻筋。綺麗と言っても決して女性的なわけでは無い精悍さを備えた顔立ち。ソファーにゆったりと腰を かけ足を 組み ポーズをつけて写っている姿は洗練されていて、そのままファッション誌に使ってもおかしくなさそうな雰囲気だ。

こんな風に地位も名誉もある人が、どうしてどこにでも居る普通の大学生でしかない自分なんかに拘るんだろう……。

写真では穏やかそうに見える横顔の人の隠された一面を自分は知ってる。
見つかればおそらくただではすまない、今あるものを全て捨ててもいいと思えるくらいの価値などどうかんがえても今の自分にあるとは思えない。
なのに、なぜ男はこれほどまでに自分に拘るのか。

拾ったライターを届けたことが二人を繋いだ切欠だと言っていたけれど本当にそれだけだろうか。
部屋に帰ってきたのを見計らうようにかかってきた無言電話、あのうちに連れて行かれたとき部屋の中に無数に貼られていた隠し撮りした自分の写真。そのどち らをとってもあの男のストーキング行為はライターの一件より前からあったことを物語っている。
『直弥じゃなければ意味は無いんだよ』男は、以前確かにそう言った。
誰かを困らせたくて無差別に選んだわけではなく、自分だからこそあの男に選ばれた?。

自分と男を繋ぐものは一体なんなのか、なにが切欠であの男の目に留まってしまったのだろう。どこかで一度でも会った事があるのだろう か?
そう考えて直弥は即座に首を振る、自分があの男と接触したのはライターの件以前にはありえない。あれほど存在感のある男なら1度どこかで顔を合わせたこと を忘れるなどありえないと思う。

もしかすると自分は、開けてはいけないパンドラの箱を開けようとしているのではないだろうか?

あの男を知ることは、お互い分かり合う上で良い手段の一つだと思っていたけれど、もしかするとその反対かもしれない。そう思うと知る ことが少し怖くなって くる。

―― どうしよう。
直弥は小さく呟いて手にした雑誌を握る指に力を込めた。
Copyright (c) 2006 Jura All rights reserved.