そして、それから……
「冗談はやめてください。」
唇が戦慄いて、瞳が悲しげに揺らいだ。
肩が小さく震えている。朱色に染まった肌は・・・怒りなのだろうか。

「冗談にしたいのか・・・。」
俺の言葉がそいつを追い込む。掴んだ肩がピクっと竦む。
身体を捉えられたそいつの瞳が俺を煽る。

捕まえたのは・・・俺。
捕まえられたのは・・・俺の心。

もう一度、身を捩って俺の腕を振りほどこうとするそいつを抱きしめた。
薄い浴衣の下には、白い身体。いつもはスーツにその身を包み込み、見せなかった身体に宿る秘密を曝してしまった、そいつの後悔が、俺に伝わる。

後悔だけか・・・そう呟き、俺はそいつの唇を奪う。

触れ合うだけでは収まらない昂ぶりに、俺の心もざわめいてくちづけを深いものにする。
絡める舌の甘さを確かめ、何度も繰り返し・・・。そいつの強張った身体から、力を奪い取る。

揺らぐ瞳を隠すように瞼を閉じたそいつ。
震える睫を見ながら、唇の端を噛む。
顰められたそいつの眉が、俺の目に映る。

・・・そして、また甘いくちづけ。

・・・傲慢な、限りなく傲慢な恋のはじまり。




「柏木さん、離してください。」
遠野はそう言って俺の身体を押しやった。まだ掴んだままの肩から、俺の手が落ちた。
急いで浴衣を着け、身繕いをした遠野はパタパタとスリッパの音を響かせ、遠ざかって行く。

俺は自分の手を見詰め、脱衣場の鏡に顔を映した。そこには呆けた俺がいた。

・・・俺は今、何をした?・・・此処にいたあいつは誰だ。

俺は遠野の顔を思い浮かべた。同じ会社に勤める2年下の後輩。課は違うが小さい会社のことだ。顔を合わせる機会も多い。
知っている。あいつは経理課の遠野だ。知っている。

けれど、さっきのあいつは知らない、遠野だった。

「遠野・・・。」声に出して呟いた。胸がきりっとする。俺は遠野の後を追った。
宴会場を覗く、遠野の姿はない。俺は入り口近くに座っていた女子社員に聞いた。

「ごめん、遠野知らない?」
「ええ、遠野さんですかぁ、あれ、いないなあ。まだ大浴場の方じゃないですかぁ、それよりもうすぐ宴会始まりますよう。」
「ああ、悪い。すぐ戻るから、席入りやすいとこに作っといて。二人分ね。」
調子のいいヤツで通っている俺はそう頼んで、宴会場を後にした。

(チッ、部屋か。)
俺はエレベーターに向かった。
廊下の窓から庭が見えた。そこに遠野の姿を見つけた。

「おい、遠野・・・。」
俺が掛けた声に、ビクっと身体を竦ませる。浴衣の衿から覗く項が強張っている。

「さっきは悪かったよ。あんな事してさ・・・。」
舌がもつれる。営業の俺としてはこんな事は滅多にないのに・・・。
「悪ふざけが過ぎたと思う。」
遠野が向こうをむいたまま、頭を振った。
「・・・・。」
遠野が何か呟いた。
「えっ?なに・・?」
ふっと溜め息が漏れる。
「大丈夫です。気にしていません。冗談だってわかってますから。」
遠野がこちらに向き直った。どこか、開き直った顔で俺を真っ直ぐ見詰めている。

「僕、色白いからかなあ、よくからかわれるんですよね。」
遠野は笑いながら言った。自分自身を蔑むような笑顔だった。
顔に張り付いた笑顔はお前のじゃない。なぜだか俺はそう思った。

「なんで、そんな顔して笑うんだ?」
俺の声が遠野を追い詰める。
一瞬引きつった笑顔がそのまま凍りついた。遠野は俺を突き飛ばしてその背中を向けた。
俺の腕をすり抜けて・・・。
俺は苛つきと胸の痛みをそいつの後姿に見ていた。

宴会場に戻った俺はさっきとってもらった席に遠野がいないのを不審に思った。
「あれっ?遠野は?」
さっきの女の子に聞くと、その子は向かい側を指指した。
「経理の片山さんにこっちへ来い、なんてさらわれましたよ。」
と笑う。
「へっ。片山?」
片山は俺の同期だった。片山の横であいつが笑っている。俺はギリっと奥歯をかみ締めた。
「遠野さん、可愛いしセクハラなんてお酒飲んでもしそうにないし。隣に座るにはもってこいなんだけどな。」
「あらぁ〜逆セクハラされちゃうんじゃない?あちらのお局さまたちがあ。」
などと近くの女子社員同士でしゃべっている。セクハラっていえばさっきのもセクハラになるのか・・・。

酒を飲みながらぼんやりしていると、向こうがわから視線を感じた。俺がそちらに顔を向けると遠野と目があった。慌てて視線を逸らすそいつに俺はまた苛立ち を覚えた。
したたか宴会場で飲んで、また自分の部屋で同僚と飲んだ。もうフラフラになった身体は早く睡眠を取りたいと、崩れそうになっているのに、俺の頭は反対に冴 えてくる。横になっても持て余す感情を宥めるように、部屋の外に出た。

各階のエレベーター脇に飲み物の自販機やらのコーナーがある、俺は冷たい水でも飲もうとそこにフラフラと歩いて行った。
その場所にいた先客が身体を強張らせて俺を見た。遠野だった。
こっちの顔を見て逃げるそぶりをする。今度はその腕を捕まえて俺の腕の中に抱きこんだ。

「遠野。なんだって逃げるんだ。俺が嫌いか?」
酒臭い息を遠野に吐き掛けながら遠野に囁いた。
「そんなんじゃ、ありませんよ。だいぶ酔ってますね。部屋まで送りましょ。」
遠野は何気ない風を装って俺に言う。そういいながら俺の真意を探ろうとするお前がいる。俺の中の雄が驚いたことに、こい
つの揺れる瞳に反応をする。さっきまでの宴会で酒を飲んで浴衣を乱した女子社員にも、お酌に来た芸者にもピクリともしな
かったはずなのに。

俺は酔いに任せて遠野の唇を奪った。抱き込まれた侭の遠野は最初さけようと顔を背けたが、顎を掴んだ俺の手に抵抗をやめた。一方的な口づけはいつしかお互 いの舌と口中を貪っていた。

いつ、誰に見られるかもしれない・・・秘密の戯れ。

「遠野・・・お前を抱きたい。」
「やめてください。柏木さん酔ってるんでしょ。バカなこともうこれっきりですよ。」
困り果てたといった遠野の言葉。その言葉とは裏腹な瞳。
俺の言葉に縋りつきたいくせに・・・。

そのとき、どこかの部屋の扉が開く音がした。俺の腕をもがすように離れた遠野。そして黙って俺の目を見た。
濡れた瞳にうっすらと滲むものがあった。俺は椅子に置いたミネラルウォーターを手にとって口に含んだ。ゴクリと飲み下す
俺の喉を食いつきそうに見ている遠野がいた。

「なんだ、こんなとこにいたのか。」
のん気な片山の声が聞こえた。
「あれ、柏木もいたのか。」
「ああ、飲みすぎて喉が渇いちまった。」

片山は遠野の肩に手を添えると「まだ、部屋で皆飲んでるぞ、戻らないのか?」と遠野に話しかける。
俺の眉がピクリと上るのをあいつはみていただろうか。確かにあの瞳が俺を見たような気がした。
「遠野は酔っ払いの相手が嫌になったらしいぜ。」
わざと煽るような言い方を俺はした。片山はチラッと俺を見て笑った。

「お前もご同様だろうが。これから誰かいい子でも捜すのか?下のカラオケで盛り上がってるのがまだいるだろう。そうそう、うちの課の北川さんがさっき、捜 してたぜ。」
片山が絡むよううに俺に言葉を投げかける。

まさか・・・こいつ・・・。俺の視線は遠野を見た。遠野の顔が蒼白になる。唇の端を小さく噛んでいる。

そうなのか?こいつと・・・?

俺の目が遠野の答えを求めている。遠野はそのまま、固く目を瞑った。

「じゃあな。」
片山は遠野の背を押して歩きだした。俺はその二人の背中をただ呆然と見詰めていた。



遠野は俺が向けた目に肯定したような顔をした。ならどうしてあんなに辛そうな顔をするんだ。別に片山との関係を俺に知られたところで、何が困ると言うの か・・・俺がやったことを考えれば。

俺の頭がますます冷えていく。喉が渇く。あの遠野が片山とさっきみたいなくちづけをして、それからあいつに、片山に抱かれている姿が脳裏に広がる。俺はミ ネラルウォーターを飲み干すとペットボトルをゴミ箱に投げ入れた。むしょうに腹がたった。

俺は来た廊下を戻りながら、遠野の唇を思い出していた。

翌日、朝食の席で俺は二人の様子をじっと伺っていた。
片山がずっと遠野の横に座っている。遠野はどこか物憂げな様子で黙って食事をしている。黙々と食べながら時折俺の方に視線を走らせる。俺と目が合うと急い で視線を落とす。お前は何を考えている。俺を責めているのか、それとも片山と関係がありながら、なお俺を誘っているのか。

俺は混乱する考えに縛られていた。そして、俺の単純な思考はもう一度遠野と二人で会うチャンスを作ろうと躍起になっていた。


あれから、1週間が過ぎた。社員旅行ではあの後遠野と言葉すら交わすことなく帰路についてしまった。そしていつもの仕事の毎日が当たり前のように始まっ た。

俺はあけても暮れても外回りに走り回り、自分の席を暖める間もなかった。この間にもあの二人は同じように会社で席を並べ、数字を纏める仕事をしているのだ ろう。外に出ていても遠野に似た背格好のサラリーマンを見つけると、思わずその姿を追った。それが人違いだとは判っていてもその行動をやめることは出来な かった。

会社に帰っても遠野の姿を捜している。彼が経理課から離れて社内をうろついている事などありはしないのに・・・。
たまに退社時刻に俺が外回りから帰社してきても出会う事はなかった。

顔が見られないとなると、ますます会いたくなる。俺はまるで中学生か高校生に戻ったようだった。実際それまで付き合ったどの女の時より、濃密に遠野の事を 考えていた。自宅でいる時すら、あいつの上気した後姿と唇の感触を思い出しては自慰を
することがあった。

抱きたい・・・

即物的なものではなかった。この腕に抱きしめるだけでいい。そのとき俺は真剣にそう思っていた。もしそうすれば、その先へ進まなくては押さえきれない欲求 があったとしても・・・

俺は真剣に遠野の事を考えていた。

その日、俺は直帰の予定で社を出た。予定表を書き入れるホワイトボードにもそう記して社を出たが、途中で予定が変更になり社に戻ってくる事になった。俺が 戻ってきたとき、片山が何人かの同僚と連れ立って、社を後にするところを見た。
その中に遠野の姿がないことに俺はほっとして、自部署に戻った。営業課としては珍しく、課内に人影は殆どなかった。営業課とプレートついた扉を開けて中に 入るとまず、おおきなパーティションの壁が目に入る、そしてそこにはホワイトボードが貼られ簡単な予定が書かれている。

それは社内のだれもが目にすることができた。そして今、その入り口のパーティションの影から、自分の机をそっと撫でている一人の男を見つけた。
遠野だった。溜め息をつくと遠野が俺の席から離れてこちらに歩いてきて、そこで凍りついたように立ち止まった。強張った顔にみるみる赤みが差して、いたた まれないようにうな垂れた。

「遠野・・・。」
俺はその名前を呼んだ。
「・・・・。」
無言で俯いている、遠野の側に歩み寄った俺はその腕を掴んだ。遠野は身体を硬直させたままそこに立ち尽くしていた。
「遠野、来い。」
俺は引き摺るように、遠野を部屋から連れ出すと給湯室まで引っ張っていった。

「遠野、話がある。今から俺の家に来い。」
傲慢な態度だった。それは充分承知していた。そうしなくてはならないほど、俺の余裕はもうなかった。性欲とか好奇心とかそんなものではない。心が信じられ ないくらいいっぱい、いっぱいだった。たった1週間やそこらで、他の事を考える場所が頭の中から閉め出されていた。

「待って下さい。僕には話すことありません。」
「逃げるのか?お前だって俺に言いたい事はあるんだろう?」
遠野の瞳がまた揺れて閉じられた。

俯いた遠野が俺の言葉を肯定したのか否定したのか、わからんものは肯定と受け取って、遠野の手をひいたまま営業課の俺の机から書類を掴むとずんずんと歩き だした。
「お前はもうこのまま帰れるのか?経理の方へ寄らなくていいのか?」
遠野は子どものようにこくりと首だけを振って頷いた。遠野はコートと鞄を手にしていた、帰り支度はしていたのだろう。

会社の前で流しのタクシーを止めると、遠野をおしこむように乗せて俺も乗り込んだ。行き先を告げてシートに沈み込む。そんな俺を不安げな眼差しで見ている 遠野がいた。

「心配することはないさ。別に取って食おうってわけじゃなし・・・」
取って食おうとしているのはそう言ってる本人なんだから、信用できるわけじゃないか。俺は自嘲気味に笑った。

20分ほど車で走ったところに俺のマンションはあった。俺が金を払っている間、遠野は辺りを眺めていた。別に対して珍しい景色でもあるまい。
俺はそんな事をしている、遠野の方がよっぽど珍しかった。もうさっきのような激情は少し落ち着いたが、今にもこいつが踵を返して逃げていってしまうのでは ないかと不安だった。俺はそんな不安を遠野の手首といっしょに握りこんでエントランスに入っていった。

黙ってエレベーターのボタンを押す。一階に来ていたそれは静かに扉を開けた。階数ボタンを押して、無言のまま扉を睨む。
なにか言わなくてはいけないような気がしたが、何も言葉がでないままエレベーターの中で扉が開くのを待った。

チンと音が響いて扉が左右に開いた。ポケットを探って鍵を引っ張り出す。鍵を廻す音がやけに大きく俺の耳に届く。それは
そのまま鼓動と重なるようだった。

「入れよ。」
遠野を促す。
「痛い・・・。」
遠野が呟いた。俺はそのとき遠野の腕をしっかり掴んでいることに気付いた。

「あ、悪い。」
パッと手を離した。じっとりと掌に汗が浮いていた。俺はその手で頭をかいた。照れくさいような、じれったい感覚が俺をち
りちりと苛む。平気な顔をして、俺はリビングのソファにコートと上着をいっぺんに脱ぐとバサッと投げた。

「その辺座って・・・。何か飲む?」
遠野はコーヒーをと俺に言った。キッチンでコーヒーの用意をする間、遠野は俺の部屋を物珍しげに見回していた。

「人んちが珍しいか?」
俺は遠野の様子にそう聞いた。
「ええ、誰かの家に行った事がないから・・・。」
遠野の言葉にいったいこいつは今までどんな付き合い方を人とやってきたんだろう?と思った。それはひどく寂しいことに思えた。

「じっくり見なよ。大したもんは何もないけどさ。」
遠野がフッと笑った。柔らかい微笑みだった。これがこいつのホントの顔に違いない。俺はなぜかそう確信した。いつもこんな風に柔らかい微笑みを浮かべてい られるようなこいつでいさせてあげたい。

俺はそんな気持がふつふつと湧いてくるのがわかった。身体中の血液が逆流した。
ガチャンと用意していたカップを乱暴に置くと、俺の足は自然と遠野に向かって動き出していた。ソファに座る遠野の足元に跪いて、その身体を抱きこんだ。遠 野の額を押し付け、ただぎゅっとその身体を抱きしめた。

「遠野・・・もっとほんとに笑えよ。あの時のうそっぱちな笑い方じゃなくさ。もう、お前が誰とつきあってようが、俺を見ずにいようが、そんなことどうでも いいよ。寂しい顔をするのは止めろ。」
こんなことを言うためにここへ引っ張ってきたんじゃなかった。片山とのことを詰問するつもりだった。そして俺と付き合えと、俺に抱かせろというつもりだっ た。
無理にでもこの身体を開かせてやる、という気持ちもあった。でも今はそんなことよりも遠野の心が淋しかった。そして俺は遠野がもっと愛しくなった。

 自分の身体を抱きしめた俺の髪を遠野は静かに梳いた。

「大丈夫です。柏木さん。もう馴れちゃったから。」
胸がつぶれそうだった。顔を上げると泣きそうな遠野の瞳とぶつかった。

「お前、片山と付き合ってるんだろう?」
唇を噛む遠野の頬に手を添えた。さっき言った言葉と矛盾してるな、と自分でもおかしかった。誰と付き合っていようが構わないと言ったそのすぐ後にこんな質 問をするなんて、やはり俺はどうかしている。この感情が嫉妬なのはもうとっくに知っている。

「いいよ、言いたくなかったら。」
俺は溜め息がでそうだった。そのことを聞いてしまったら、俺の中で気持の収集がつかなくなってしまいそうだった。嫉妬が渦巻きながら片山との関係を肯定し て、俺は物わかりよく身を引かねばならない。今この腕の中にあるこいつを愛しいとおもっているくせに、離したくないとおもっているくせに。

「コーヒー淹れてくるよ。」
遠野の身体からゆっくりと離れながら立ち上がった。キッチンでやかんがシュンシュンと湯を滾らせていた。
不意に背中に暖かい感触があった。遠野が俺の背中に額を押し付けていた。そっと俺の背中に凭れた遠野が震えていた。

「柏木さん。僕もう帰ります。ありがとう、嬉しかった。」
震える声で遠野はそういうと、俺の背中から離れた。俺は後ろを振り向くことさえできないまま、そこに立ち尽くしていた。
遠くで扉が開いて、そしてカチャンと閉まる音がした。



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